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今回は俳句を深く楽しんで いらっしゃる 有也さんならではのブログです。

2009/ 09/ 01
                 
IMG_1593のメール版
俳句は人の為ならず   森有也
 俳句の手ほどきを受けて5年ほどになりますが
もっと若いうちに俳句に出会っていたらよかったのにと
思うことしきりです。

「都市」中西夕紀主宰の調べたところでは、
近・現代有名俳人の代表句は大体若いうちに
作られているそうです。

それはそうでしょうね。生きる意味を問い続けた
若い日の煩悶、希望や焦燥の思いは、俳句という形式に
出会えばきっと人の心をうつ五七五に凝縮することが
できたことでしょう。

 しかし、一方で私は若い時に俳句に出会わないで
よかったと思うこともあるのです。

芭蕉時代の俳人から現代の俳人に至るまで、
俳句(俳諧)に出会ったばかりに仕事を捨て妻子を捨て、
乞食同然に最後を迎えた人たちが大勢いるのです。

だから、もし私が若い頃俳句に出会っていたら
職に就くことも妻子を得ることもなく、人生不可解と
滝壺に身を投じたか、放浪の末に野垂れ死にしていた
かもしれません。

今となっては、平凡に生き、俳句のある余生が
楽しいものであることに感謝しています。

以下に俳諧(俳句)に出会って放浪の末、俳諧(俳句)に
殉じた人達の何人かをご紹介したいと思います。

 水鳥やむかふの岸へつういつうい  広瀬 惟然
                      (ひろせ いぜん)

広瀬惟然(慶安元年~宝永8年、
1648~1711年)はある日、庭の梅の花が
時ならずして鳥の羽風に落下したのを見て
隠遁の気持ちがわき起こり、ある夜妻子を捨て
自ら頭を丸めて芭蕉門に駆け込んだそうです。

芭蕉没後は芭蕉の句に節をつけ、太鼓を鳴らしながら
風羅念仏(ふうらねんぶつ)と称して全国を踊り行脚
したとのこと。後年、小林一茶は惟然の句をまねして
一茶風を確立したともいわれています。

また近代では芥川龍之介は惟然に傾倒すること
しきりで、短編小説にも書いているほどです。

 落栗の座を定めるや窪溜り   井上 井月
                   (いのうえ せいげつ)

 井上井月(文政5年~明治20年、
1822年~1887年)は越後長岡の生まれですが、
出自は不詳です。

弘化元年(1844年)井月は江戸に滞在中、
長岡の留守宅に妻と娘を地震で亡くしました。
その後の詳細は分かりませんが、信州伊那谷に
現れたのは安政5年(1858年)頃です。

それから20年、伊那谷の村人たちのあたたかい
まなざしのもとに、酒浸りの俳諧生活を続けました。

掲句は時世の句とも言われていますが、酒に酔い潰れて
窪溜まりに倒れながら、自分の身を落ち栗に置き換えて
詠んだものでしょうか。

山頭火は井上井月の句や生き方に多大な影響を
受けたといわれています。

 山頭火や放哉も放浪俳人の典型であり、
現代の若者をも魅了してやみません。
残念ながら紙数が尽きて参りました。
機会があれば山頭火や放哉についても
お話がしたいものです。

参考図書:
1)『風羅念仏にさすらう 口語俳句の祖 惟然坊評伝』
沢木美子(ミネ)著 翰林書店
2)『井上井月伝説 人間ドキュメント』
江宮隆之著 河出書房新社
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