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勉強家の康太さんに俳句への取り組み方をつぶやいて頂きます。

俳句と私
                岡康太

俳句についての苦労話を書くようにという話を頂いた。
傍目にも苦労していることがわかるのであろう。

俳句についての苦労はいろいろあったし、今もある。
でも、この話はあまり格好の良いものではない。
それを覚悟でつぶやくことにしよう。

俳句を始めてすぐの頃、「季語が抜けていますね」とか
「それは芭蕉のパロディです」などと
教えられたことを思い出す。

以来、どのように詠めば俳句になるかと言うより、
こうしてはいけない、ということの連続によって
消去法で今の私の俳句がある、と言う印象である。

ほぼ4年たってさすがに最近は季語が抜け落ちる
ようなことは少ないが(皆無ではない)、
今も悩まされていることがある。

生まれて以来、詩とか俳句とかに全く縁のないままに
この間まで過ごしてきた。

そのうち大半は論理と説明の世界である。
「話の筋をもっとしっかり」とか「もっと説明を充分に」
と乞われ、また自分でも努力してきた。

ところが、縁あって俳句の世界に入ると一転して
「それは理屈だ」、「それは季語の説明に過ぎない」
と言われ続けている。これはまだ抜けきれない。

その上最近ではまた新たな課題が現れた。
それは取り合わせについてである。

取り合わせは出来るだけ関係のないものを
取り合わせて、言葉と言葉の衝撃や引き合いの妙を楽しむ
とのことであるが、この「妙」が分からない。

例えば、吟行のとき詠われた加藤先生の句がある。
    老鶯やばけつに水の七分目   加藤静夫

この句は皆さんに好評であった。ところが私には
「老鶯」と「七分目まで入ったばけつの水」が
どうぶつかり、どう引き合っているのか、
その「妙」なること、これがいまひとつ
分からないのである。

今では長く続けていく中で少しずつ掴んでいくしか
ないか、とあきらめムードである。

その一方で、俳句をするようになってから、
色々の興味が広がった。

古典や草花・鳥・雲などの自然風物などである。

万葉集や源氏物語などの古典の繰り広げる世界、
道ばたに咲く草花の可憐な美しさ、
空行く雲の悠々たる姿、を面白いと思うのである。

こんなことは嘗てあまり感じたことがなかった。

たとえば、芭蕉の作品を見ていると、
源氏物語などの古典や、李白や杜甫などの漢詩、
西行などの歌、また、荘子や仏教などにも誘われる。

それらをゆっくり味わいながら読んでいく。
これは楽しいことである。

もちろん、深く鑑賞するには時間も能力も足りないが、
たった17文字の俳句がこれほど広く深い世界に
誘ってくれるのである。

先にお話した苦労はこれからも続くのであろうが、
このように古典や自然に対して開かれた17文字の窓は
私にとってこよなく魅力である。

今では古典も自然も私の人生の中にあるものである。

願わくは、挫折することなく俳句を続けて、
そのような人生を歌い上げる句が下手でも良いから
作れるようになれば、それ以上楽しいことは
ないのではないかとつぶやいている。

  花梨の実を指さす夫婦小鳥鳴く   岡康太tp://blog-imgs-15.fc2.com/8/1/9/8194/20091027123902ace.jpg" target="_blank">狼の

                          〆     
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