「都市」の巻頭エッセイを執筆中の岩松研吉郎先生の講演です。
2015年07月23日 公開
岩松先生による「七夕について」の講演会
永井 詩
「都市」の結社誌に巻頭エッセイを執筆中の、
慶応大学名誉教授の岩松研吉郎先生の講演を拝聴する機会に恵まれた。
内容もタイミングよく「七夕について」であった。
岩松先生のお書きくださっているエッセイは、
詩歌に出てくる木々についての歴史的考察であるが、
いつも新しい知識を頂けて、楽しみに拝読させて頂いている。
俳句において七夕という季語は「星祭」以外の傍題が、
とても多い季語であるということから講演は始められた。
七夕は元来中国から渡来した「星祭」という季節行事であった。
中国ではこの日に女子は機織りや裁縫の上達を願う、
「乞功奠(きっこうでん)」という行事もあった。
日本でも、平安中期までは貴族社会に残っていたらしい。
ただ、布を扱う専門の商いが出来てからは、
「乞功奠」の意味は必要とされなくなるが「技向上」
ということは記憶され、その後の時代で大切とされた
「書芸の向上」が祈られるようになった。
それが七夕の季語の傍題の「梶の葉」「七夕色紙」
に残されている。
元々、日本人は歴史的に星には興味を持っていない
民族であったのに七夕が定着したのは「乞功奠」の風習と
日本の神を待つという「棚機(たなばた)つ女(め)」の風習が習合し
土俗的な竹と水で祓いをしてきた下地があったためである。
ここから「七夕流す」の傍題もある。

漢詩や和歌は制約があったが、俳句は和歌や漢詩を
自由に取り入れて雅な事柄だけではなく、世俗と古い祭の
内容を七夕という季語に取り入れているのは、
さすが季語、さすが俳句と言えるというお言葉で公演は
終了し面白い時間を過ごさせて頂いた。
私は為政者が、中国の行事を取り入れたのは、
民へ国家の威信を伝えるためと思っていたが、
中国という大国に認めてもらうための策でもあったらしいと
先生への質問で納得した。ここ百年来、中国を蔑視する風潮もあるが、
文化的に見て中国は日本文化の父的立場であることを、
再認識した。

また、俳句というものが、懐の深い文芸であったのに
近頃はどうなのだろうかという思いも持った。
永井 詩
「都市」の結社誌に巻頭エッセイを執筆中の、
慶応大学名誉教授の岩松研吉郎先生の講演を拝聴する機会に恵まれた。
内容もタイミングよく「七夕について」であった。
岩松先生のお書きくださっているエッセイは、
詩歌に出てくる木々についての歴史的考察であるが、
いつも新しい知識を頂けて、楽しみに拝読させて頂いている。
俳句において七夕という季語は「星祭」以外の傍題が、
とても多い季語であるということから講演は始められた。
七夕は元来中国から渡来した「星祭」という季節行事であった。
中国ではこの日に女子は機織りや裁縫の上達を願う、
「乞功奠(きっこうでん)」という行事もあった。
日本でも、平安中期までは貴族社会に残っていたらしい。
ただ、布を扱う専門の商いが出来てからは、
「乞功奠」の意味は必要とされなくなるが「技向上」
ということは記憶され、その後の時代で大切とされた
「書芸の向上」が祈られるようになった。
それが七夕の季語の傍題の「梶の葉」「七夕色紙」
に残されている。
元々、日本人は歴史的に星には興味を持っていない
民族であったのに七夕が定着したのは「乞功奠」の風習と
日本の神を待つという「棚機(たなばた)つ女(め)」の風習が習合し
土俗的な竹と水で祓いをしてきた下地があったためである。
ここから「七夕流す」の傍題もある。

漢詩や和歌は制約があったが、俳句は和歌や漢詩を
自由に取り入れて雅な事柄だけではなく、世俗と古い祭の
内容を七夕という季語に取り入れているのは、
さすが季語、さすが俳句と言えるというお言葉で公演は
終了し面白い時間を過ごさせて頂いた。
私は為政者が、中国の行事を取り入れたのは、
民へ国家の威信を伝えるためと思っていたが、
中国という大国に認めてもらうための策でもあったらしいと
先生への質問で納得した。ここ百年来、中国を蔑視する風潮もあるが、
文化的に見て中国は日本文化の父的立場であることを、
再認識した。

また、俳句というものが、懐の深い文芸であったのに
近頃はどうなのだろうかという思いも持った。
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