読書家の砂男さんの読書ノートを抜粋して書いて頂きました。
2010/01/20 雑記ノート 江川 砂男
雑誌などで興味を引かれて、ノートにメモをした
文章のいくつかを紹介します。
○寺山修司「俳句研究」 昭和34.12号
現代のように全てがセクト主義化して、
下駄屋じゃ靴は売らぬ、パーマネント館で
散髪せぬ、というような意味の専門化で、
俳句も短歌も別々の一家をかまえている不幸な喜劇を
僕は容認しない。
○池田澄子 「休むに似たり」
あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄
、、、全ては過去を忘れない作者の、未来に
対する愛である。
未来を守るための言葉を
俳人は発することが出来るのであった。
俳句の形式には適さない主題があると、
決め付ける必要はないのだ。
嫌う人は嫌われたらいい。
それだけのことだ。
○辻桃子 「あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか」
、、、だが、今の俳句の世界を見回せば、新しい
作品を創りだす、俳句に新しい価値を付け加える
といった創造的な仕事よりは、
どこにでもある俳句らしい無難な作品を
なぞり合うような風潮がはびこっているのは
残念なことである。
○五島高資 「俳句時評」
08.11.24 朝日新聞
、、、しかし高浜虚子が俳句を近代文学の
一ジャンルとして確立させるために
季感文学として自己限定をして以来、
近代俳句は客観写生の下に季語は記号化して
些末写生による俳句の形骸化が進んでいる。
○筑紫磐井 「飯田龍太の彼方へ」
、、、、日本人は、、、
実は自然についてはほとんど何もしらず、
自然を愛好することもなかったのではないか。
、、、、芭蕉もほとんど自然には
目を向けなかった一人だ。
まさに騒がれた「奥の細道」自身、歌枕巡回記と
いうべきもので、古人の名所に寄せるイメージだけを
綴った紀行文なのである。
芭蕉自身の目で見た自然の発見など数えるほど
しかない。
、、、、はっきり言えば、俳句を作っているから
自然をよく知っているなんてとんでもない不遜な
言葉だ。
過去の先達が作った自然認識のパターンに現実の自然を
当てはめて満足しているのが大半の作家であって、、、、
岸本尚毅 「俳句通信」 vol 52
蟲のゐぬ虫籠ほのと青かりし 田中裕明
虫籠の青いということだけで一句が成り立つ。
しかもその気息のゆるやかなこと。
裕明の句見ると、悔しいけれど、私自身が
何と意地汚く、あくせくとした句作りを
していることかと思わずにはいられない。
以上
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