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現代俳句勉強会には、平日なので不参加のわるさんが、後藤比奈夫の句を鑑賞しています。

2018/ 07/ 23
                 
        後藤比奈夫の俳句
                      吉川わる

      雨の中訪ね來し家の水中花  

DSCF5518.jpg

最近心がけているのは、助走のない句である。
と言ってもわかりにくいが、前提とか条件のない句のことだ。
前提があると作為的になってしまうように思え、また、一句の情報量も多くなる。
掲句で言うと「雨の中」が前提であり、「○の中」というと説明っぽくなるはずだが、
この句に限っては気にならない。
「雨だれや訪ね來し家の水中花」と直してしまうと切れが良すぎる感じがする。
掲句のリズムはくせになるのだ。
 
後藤比奈夫(敬称略。以下同じ)の第一句集『初心』には、
上五が「や」で切れる句は数えるほどもなく、句中に切れのある句自体が少ない。
それでもこの句が緩くならないのは、イ段の連続により発音しにくい“kisi”( 來し)
という二音が“yano”( 家の)という素直な二音につながることにより強い
アクセントが生まれ、それを体言がしっかりと受け止めているからだ。

『初心』からもう一句挙げてみる。
  
      お水取見て來し睡き人とをり 

RIMG0045.jpg


この句も中七の“mite・kisi・nemuki”( 見て來し睡き)に
ホップ、ステップ、ジャンプのようなアクセントがあり、
しかも「睡き」には意味上の飛躍もある。連体形がイ段となる文語の効果に
よるもので、「お水取見て来た睡い人といて」では俳句にならない。

 最後に「雨の中」の句について内容の鑑賞もしてみよう。
雨の中を訪ねた家は、昭和二十年代後半であり、鉄筋コンクリートではなかろう。
家の外も内も雨の季節なのである。「いきいきと死んでゐるなり水中花」と
詠んだのは櫂未知子だが、掲句の水中花はいきいきとはしていない。
しかし生きている。潜めても呼吸を止めないのだ。
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