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現代俳句勉強会には、平日なので不参加の燐さんが、渡邊白泉の句を鑑賞しています。

2019/ 07/ 24
                 
           渡邊白泉の一句
                            本多 燐
     

         戦争が廊下の奥に立つてゐた

私の祖父は、戦争で死んだ。兵隊として、中支から南方へ送られる船が
撃沈されたからであった。私がそのことをはっきりと意識したのは、
中学生の時だった。父が私に、戦地の祖父から送られたハガキを
見せてくれたのがきっかけだった。

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そのハガキは祖母の遺愛の文箱に納められ、数枚あった。
いずれも軍事郵便で、宛名は祖母と父、その弟。裏を返した文面には、
細かい文字がびっしり書き込まれてあった。
同じ文箱には、宛名先不明として返信された祖母から祖父への手紙もあり、
幼かった父が無邪気に描いた戦闘機の絵も同封されていた。

それらに書かれた細かい文字を、一つ一つ拾いながら読んだ日の衝撃は、
いまだに忘れなれない。窓外に五月雨を見ながら、冷たい板の間に座り込んで、
祖父が戦争で死んだこと、その祖父の息子が父であること、そしてその息子が
私であることに思いが至った時、私の運命のすぐ隣にも、戦争があったことが
実感されたのである。それは、私も歴史の当事者の責任ある一人となった実感であった。

そのことと時を同じくして、大岡信の「折々のうた」(岩波新書)を読み、
掲出の白泉の句に出会ったのであった。その出会いは、短詩型表現が
何らかの本質に触れる奇跡を知った瞬間であった。
祖父の戦死を意識した中学生の私が、何にも言い得ることができないほどの
感銘を受けたことを、今でも昨日のことのように覚えている。 

                                    指



ところで、白泉の掲出句が昭和十四年の作品であることに、
あらためて気を留めてみたい。
仮に、この句が戦後に作られた作品として読まれるならば、
どこか言い訳めいた冷笑的な句に終わってしまわないだろうか。
短詩型表現が社会性を求める時、やはり歴史の瞬間の当事者として
詠まれたものでないと、その力を十分に発揮することができない。
散文と異なり、分析する力を持ち得ない短詩型表現にとって、
それは必須の条件なのだろう。渡邊白泉の掲出句は、
そのことを見事に証明してくれていると思うのである。
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