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康太さんは、お留守番タイムにベストセラー「老いの才覚」を 読破!そして、、
2011/ 05/ 25 留守番のひとりごと
岡康太
今日は留守番。

風邪も抜けず一日家で本や映画を見ることで過ごそう。
先ず友人から勧められた「老いの才覚」(曽野綾子著、ベスト新書)を
読んでみよう。
この本は後期高齢期に入った著者が、その老境の
生き方についてご自分の覚悟を綴ったものと思われる。
いろいろの項目に分けて生き方が述べられているが
基本的に次の三つに集約されると勝手ながら解釈した。
1、 求めない、与える人生
2、 喜びを見つける人生
3、 すべてを受け入れる人生
この考え方は著者のキリスト教への信仰から
来ているのかも知れない。
仏教でもそのような考え方がある。
慈悲という言葉があるが、これは抜苦与楽のこと。
順序が逆になるが、「悲」という言葉は
他者の苦しみを取り除いてあげること
「慈」は他者に楽を与えることだ。
自らがさとるだけではなく、同時に他者をもさとりに導く、
これはまさに「求めない、与える」だと思う。
また,老子の理解で卓越した鹿島祥造さんは
「求めない」(小学館)という書を刊行されており
その中で「求めない」生き方の素晴らしさを
沢山の詩に詠っておられる。
それは老子の「足ルヲ知ルコトハ富ナリ」という思想が
ベースとなっている、とあとがきに述べておられる。
「すべてを受け入れる」・・・これも私にはなかなか難しい。
これも自分中心でいる間は出来ることではない。
自分がいかに至らないものであるか、自分の能力は
いかに限られたものであるかに本心より気付かない限り
無理であろう。
もし気づけば、ある人にとっては人間を超える存在への
信仰につながる。キリスト教では神。
親鸞聖人の場合では阿弥陀仏。
あるいは特別な信仰でなくても、先祖とか、太陽とか
古木とか、山など自らを託す存在は古来あった。
この「信じて自己を託す」ことが
「すべてを受け入れる」こと
そしてその上で努力することによって
自立と喜びにつながるのだと思う。
次に映画「名もなく貧しく美しく」
(松山善三監督、昭和36年)を録画で見た。
すると、なんとそのなかで道夫(小林桂樹)が
妻の秋子(高峰秀子)に「自分がしあわせになれたら
今度は人のしあわせを考えなければなりません」という
セリフを語る。
これなどは全く「すべてを受け入れ、求めず、与える」
人生ではないか、と今日の偶然に驚いた。
この場合、特別の信仰は示されていない。
道夫と秋子のあの謙虚さはどこから来るのだろうか。
そんなことをつぶやいていると、はや夕食時が迫ってきた。
「早く帰って来て夕食を作ってほしいなあ
おなかがへってきたではないか。」

「ああ、やっぱり私は自分中心の人間だったのだ・・・。」
このように今日もまた暮れていった。 〆
岡康太
今日は留守番。

風邪も抜けず一日家で本や映画を見ることで過ごそう。
先ず友人から勧められた「老いの才覚」(曽野綾子著、ベスト新書)を
読んでみよう。
この本は後期高齢期に入った著者が、その老境の
生き方についてご自分の覚悟を綴ったものと思われる。
いろいろの項目に分けて生き方が述べられているが
基本的に次の三つに集約されると勝手ながら解釈した。
1、 求めない、与える人生
2、 喜びを見つける人生
3、 すべてを受け入れる人生
この考え方は著者のキリスト教への信仰から
来ているのかも知れない。
仏教でもそのような考え方がある。
慈悲という言葉があるが、これは抜苦与楽のこと。
順序が逆になるが、「悲」という言葉は
他者の苦しみを取り除いてあげること
「慈」は他者に楽を与えることだ。
自らがさとるだけではなく、同時に他者をもさとりに導く、
これはまさに「求めない、与える」だと思う。
また,老子の理解で卓越した鹿島祥造さんは
「求めない」(小学館)という書を刊行されており
その中で「求めない」生き方の素晴らしさを
沢山の詩に詠っておられる。
それは老子の「足ルヲ知ルコトハ富ナリ」という思想が
ベースとなっている、とあとがきに述べておられる。
「すべてを受け入れる」・・・これも私にはなかなか難しい。
これも自分中心でいる間は出来ることではない。
自分がいかに至らないものであるか、自分の能力は
いかに限られたものであるかに本心より気付かない限り
無理であろう。
もし気づけば、ある人にとっては人間を超える存在への
信仰につながる。キリスト教では神。
親鸞聖人の場合では阿弥陀仏。
あるいは特別な信仰でなくても、先祖とか、太陽とか
古木とか、山など自らを託す存在は古来あった。
この「信じて自己を託す」ことが
「すべてを受け入れる」こと
そしてその上で努力することによって
自立と喜びにつながるのだと思う。
次に映画「名もなく貧しく美しく」
(松山善三監督、昭和36年)を録画で見た。
すると、なんとそのなかで道夫(小林桂樹)が
妻の秋子(高峰秀子)に「自分がしあわせになれたら
今度は人のしあわせを考えなければなりません」という
セリフを語る。
これなどは全く「すべてを受け入れ、求めず、与える」
人生ではないか、と今日の偶然に驚いた。
この場合、特別の信仰は示されていない。
道夫と秋子のあの謙虚さはどこから来るのだろうか。
そんなことをつぶやいていると、はや夕食時が迫ってきた。
「早く帰って来て夕食を作ってほしいなあ
おなかがへってきたではないか。」

「ああ、やっぱり私は自分中心の人間だったのだ・・・。」
このように今日もまた暮れていった。 〆
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