ライター心さんの『本』の紹介です。
2012年07月16日 公開
書評の名人芸~『柔らかな犀の角 山崎努の読書日記』を読んで
栗山 心
『都市』に「俳句月評」を連載している。
毎回、願うことは、「ここに取り上げた本を読みたくなるか」
「今、現在を切り取っているか」どうか、ということ。
ほとんどが句集だが、膨大な数刊行される本の中で、
忘れがたい魅力を持つものを紹介したいし、せっかくの月評なので、
リアルタイムで俳句の現代を感じるものを、と思う。
俳優の山崎努が『週刊文春』で連載していた読書日記が、
『柔らかな犀の角 山崎努の読書日記』として刊行された。
連載時にも読んでいたが、一冊通して読むと、優れた書評は
本の紹介に留まらず、読みものとして成り立つ、
ということが分かる名著である。
まさに書評の名人芸、といっても過言ではない。
ここでは、本書に紹介された本から、俳句関連のものを
引いてみる。
たとえば、吉田十篤の『こぼれ放哉』。
「演技する上で大切なのは、危なっかしくやることである。
失敗を覚悟で、どうなってしまうかわかないところへ
自分を追い込んで行く。それが大事。(略)危険を避けるのではなく
安全を避けなければならない」という自身の演技論から、
「放哉は、危なっかしく、安全を避けて生きた人だ」と、
本の紹介に繋がる。

「映像の仕事は何といってもロケが楽しい」と前置きした上で
「風も陽の光も地べたも快い刺激を与えてくれる。
自分を(幾分かは)役に明け渡す、その感じがこたえられない」と、
嵐山光三郎が芭蕉を理解するために、芭蕉になりきることを試みた
『芭蕉紀行』を紹介する。
俳優としての自分を通した上での、書評が見事だ。
ジャンルを問わず乱読。良いものは良い、と絶賛。
真の本好きを実感する。紹介される何冊かの本が、
一見関係ないようで、深いところで繋がっているのも良い。
たとえば「身体の仕組み、身体の力、身体を貸す」
「悪人、まれびと、寂廖」「ねっとりぬめぬめ、耳のうら、殴る」
などなど、内容を説明し過ぎないタイトルの付け方も興味をそそる。

古田十篤の『こぼれ放哉』についての一文で、
「小舟、海上、月、少年、酒、病気」といった劇的材料が
揃っている場面で、敢えて作者の古田が筆致を抑えたタッチで
描いたことに対し、「もし僕がこのシーンを演じるとすれば、
古田のフィーリングに近くなるはずだ」という、山崎努。
ぜひ山崎の演じる放哉を観てみたいものである。
栗山 心
『都市』に「俳句月評」を連載している。
毎回、願うことは、「ここに取り上げた本を読みたくなるか」
「今、現在を切り取っているか」どうか、ということ。
ほとんどが句集だが、膨大な数刊行される本の中で、
忘れがたい魅力を持つものを紹介したいし、せっかくの月評なので、
リアルタイムで俳句の現代を感じるものを、と思う。
俳優の山崎努が『週刊文春』で連載していた読書日記が、
『柔らかな犀の角 山崎努の読書日記』として刊行された。
連載時にも読んでいたが、一冊通して読むと、優れた書評は
本の紹介に留まらず、読みものとして成り立つ、
ということが分かる名著である。
まさに書評の名人芸、といっても過言ではない。
ここでは、本書に紹介された本から、俳句関連のものを
引いてみる。
たとえば、吉田十篤の『こぼれ放哉』。
「演技する上で大切なのは、危なっかしくやることである。
失敗を覚悟で、どうなってしまうかわかないところへ
自分を追い込んで行く。それが大事。(略)危険を避けるのではなく
安全を避けなければならない」という自身の演技論から、
「放哉は、危なっかしく、安全を避けて生きた人だ」と、
本の紹介に繋がる。

「映像の仕事は何といってもロケが楽しい」と前置きした上で
「風も陽の光も地べたも快い刺激を与えてくれる。
自分を(幾分かは)役に明け渡す、その感じがこたえられない」と、
嵐山光三郎が芭蕉を理解するために、芭蕉になりきることを試みた
『芭蕉紀行』を紹介する。
俳優としての自分を通した上での、書評が見事だ。
ジャンルを問わず乱読。良いものは良い、と絶賛。
真の本好きを実感する。紹介される何冊かの本が、
一見関係ないようで、深いところで繋がっているのも良い。
たとえば「身体の仕組み、身体の力、身体を貸す」
「悪人、まれびと、寂廖」「ねっとりぬめぬめ、耳のうら、殴る」
などなど、内容を説明し過ぎないタイトルの付け方も興味をそそる。

古田十篤の『こぼれ放哉』についての一文で、
「小舟、海上、月、少年、酒、病気」といった劇的材料が
揃っている場面で、敢えて作者の古田が筆致を抑えたタッチで
描いたことに対し、「もし僕がこのシーンを演じるとすれば、
古田のフィーリングに近くなるはずだ」という、山崎努。
ぜひ山崎の演じる放哉を観てみたいものである。
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